国枝厩舎 椎本英男調教助手インタビュー
国枝厩舎 椎本英男調教助手インタビュー
アーモンドアイとアパパネという日本競馬史に名を刻む2頭の三冠牝馬をはじめ、有馬記念を制したマツリダゴッホ、天皇賞馬マイネルキッツ、近年ではアパパネの娘であるアカイトリノムスメや昨年の2歳女王サークルオブライフなど、数々の名馬を競馬場に送り出してきた美浦の名門・国枝栄厩舎。 その名門厩舎で16年に渡って調教助手として従事し、Twitter・Instagram等のSNSでも積極的に競馬についての情報発信を行なっているのが、椎本英男さんだ。今回は、椎本さんが競馬に携わろうとしたきっかけや、馬と向き合う上で大切にしていること、さらにはアーモンドアイの裏話など競馬ファンにとっては“たまらない話”を伺ってきた。(文・秀間翔哉)
■インタビュー内容■
・ 風のシルフィードから競馬学校へ
・ 全頭が担当馬「攻め専」
・ 国枝厩舎の戦略とは
・ G1だろうと馬ファースト
・ 勝利は馬の力、しつけは厩舎の力
・ G1馬たちが持つ独特の力
・ 競走馬のメンタルと距離の関係
・ 史上最強牝馬アーモンドアイとは
・ 「中」から見える競馬の魅力
風のシルフィードから競馬学校へ
馬と全く関係のない家庭に生まれたという、椎本さん。競馬に出会ったきっかけは、偶然だった。 「美術の時間に友達がデッサンの教材として持ってきた『風のシルフィード』を試しに読んでみたら面白くて、全巻買って読んでいくうちに騎手になりたいと思うようになりました」 ──おそらく同じような動機で競馬を見始めるようになったというファンの方は少なくないのではないだろうか。 当時まだ中学生だった椎本さんが他と違ったのは、その夢に向かってしっかりと一歩を踏み出したことだった。「高校は馬に乗れるところに行こう」と決意した椎本さんは名古屋市内にある愛知県立鳴海高校に進学し、馬術部として3年間活動して馬の基礎・馬に乗ることの基本を学んだ。余談だが、同校はホッカイドウ競馬所属の期待の若手・落合玄太騎手の母校としても知られている。馬術部での活動を経て、馬には乗れるようになった椎本さんだったが、視力の問題で騎手の道を諦め、厩務員として馬に携わっていくことにした。 「当時はレーシックもメジャーじゃなかったし、眼鏡もコンタクトもダメでしたから、厩務員を目指す方向に変えました。高校卒業後に北海道のチェスナットファームで3年半くらい修行させてもらって、そこから競馬学校に入学しました」全頭が担当馬「攻め専」
ホースマンとしての修行を終えた後、競馬学校の厩務員課程を卒業した椎本さんはカネツクロスなどを管理した西塚安夫厩舎で持ち乗り厩務員として、夢に見ていた生活をスタート。さらにカナハラドラゴンなどを管理した山田要一厩舎を経て、ハナズゴールで海外GⅠを制した経験もある加藤和宏厩舎に移籍した。そして加藤厩舎で調教助手に転身して現在所属する国枝厩舎へと移り、もう16年目になるという。 「国枝先生と加藤先生は師弟関係というのもあって、国枝厩舎に移籍する前に加藤厩舎でみっちり修行させてもらいました。当時はまだ制度がややこしかったけど、加藤厩舎で調教助手に転身。それからずっと攻め専だから、担当馬はいません。むしろどの馬も担当馬みたいな感じですかね。(笑)」 攻め専の調教助手の業務内容は、1日に3頭、多い時では4頭ほどの調教をつけることだ。当然、馬も生き物であるから、いきなり走ったりすることはできないため、準備運動の時間も含めて1頭におおよそ1時間半程度の時間を掛けて身体をほぐしながら運動を行う。椎本さんには、国枝厩舎で調教助手として従事する上で、大切にしていることがあるという。
国枝厩舎の戦略とは
「国枝厩舎の方針としてとにかく馬を大事にするというか、無理はさせないことを念頭に置いています。『国枝厩舎の新馬は走らない』なんてことを言われることもありますが、あえてそういう風にしていないだけです。長い目で見て、古馬になってから走ってくれればそれで良いわけで、先を見越した上で馬を作りすぎないように心掛けています」 人がムキになってしまうと、人の温度感を敏感に感じ取ることができる馬たちも徐々にヒートアップしてしまうため、常に無理をさせずにレースを使いながら馬を作っていくというイメージを持ちながら馬と接している。そんな中でも素質のある馬は、2歳の段階でたとえ仕上げ切っていなくても勝つことができるのだから、決して「勝とうとしていない」わけではない。 新馬戦で勝つという目先のことよりも、その結果を活かして2走目、3走目にどう繋げていくかが馬にとって重要だと考える椎本さん。国枝厩舎には馬を「鍛えていく」という考え方はなく、馬の持っているものを100%出せるように、そして100%を超えないように調整していこう、という考え方を共有しているのだという。 若いうちから100%に馬を仕上げてしまうと、そのうちどこかのタイミングで100%を超えて壊れてしまうことがある。調教でどれだけ走ったとしても、故障してしまったらオーナーサイドには何の利益も生まない。椎本さんは独特な言い回しでこう続ける。 「ドライバーを持たずにパターで刻んでいくようなイメージですかね。残り200yなのにドライバーで打ったらグリーンも越えちゃうじゃないですか。それだったらパターでもアイアンでも刻んでいこうかという……。たとえ打数を重ねてしまったとしても、結局は最後にカップに入れば良いわけです。もちろん一発で入ることに越したことはないですが、それには運も必要ですし、無理に狙って行くようなことはしません。ましてや、新馬なんかは特にその要素が強いですし、2走目以降は徐々に競馬も覚えてくるので無理はさせません。巷では『国枝厩舎の新馬は走らない』って言われているかもしれませんが、皆さんが思っているほど気にはしてはいません(笑)」 馬主さんによってはとにかく回数を使うことが優先という場合もある。馬が経済動物である以上、それも方針の一つであるだろう。しかし、数を使って壊してしまっては元も子もない。そういった信念で、馬の育成に携わっている。アーモンドアイ(ジャパンカップ)
G1だろうと馬ファースト
一方で、馬の金額については全くと言って良いほど気にしないという。 「高いから必ず走るというわけじゃないですし、馬の値段は人間サイドが勝手に決めただけですからね。価格によって調整過程を変えたり、デビューをずらしたりすることはないですし、100万円だろうと1億円だろうと“馬は馬”ですから」 とにかく“馬ファースト”。馬のことを優先に考えて馬を大切にする。「馬は(調教を)やりすぎて良いことなんて一つもない」という考えは、一見すると、気持ちが入りそうなGⅠやトライアルでも変わらない。 「もちろん勝てたら最高ではありますけど、あくまでも馬のコンディションが優先なのでそこまで意識はしません。馬にとってはGⅠだろうが、トライアルだろうが、未勝利だろうが、どのレースだろうとレースはレースです。人間が勝手に意気込んでいるだけで、やること自体は一緒ですし、人間が余計なことをするのが馬にとっては迷惑なんじゃないかな、と」勝利は馬の力、しつけは厩舎の力
さらに最近では、厩舎として特に馬のしつけにも注力しているという。今年2月に引退された藤沢和雄元調教師の言葉に「勝利は馬の力、しつけは厩舎の力」というものがあるが、まさにその言葉を実行するような形だ。 調教馬場の真ん中で乗り手を乗せながらじっと立たせる練習をさせたり、洗い場では馬を繋がずに人間が前で引き手を持って手入れを行なったりと、様々な工夫を凝らして“行儀の良い馬”を作る努力を欠かさない。先日、騎手が装鞍所で馬に踏まれて怪我をしたなどの事例もあったが、馬を走らせる調教以外の日頃の積み重ねの部分がそういった事故を未然に防ぐことや、関係者の方が引き手を持って行う口取り写真の撮影を円滑に進めることなどに繋がっていくことが期待される。 人を育てるときでも同じだが、ただ感情に任せて怒ることのないように、しっかり目的を持って“叱る”。椎本さんはそんな微妙なニュアンスの違いをとても大切にしているという。 「人間のコントロール下に置いて、人馬ともに安全に…ということを一つの目標にしています。しつけもしつつ、そこに成績が伴ってくれば一番かなと思っています。やはり行儀の悪い馬よりは、行儀の良い馬の方が良いですし、行儀が悪いせいで『馬が強いだけで走っている』なんて言われてしまったら馬も可哀想だし、ホースマンとしても後味の悪いものになってしまいますからね」G1馬たちが持つ独特の力
しつけは安全面や行儀だけでなく、競馬にも直結してくる。アーモンドアイやサークルオブライフらGⅠ級の馬たちとそうでない馬たちとの一番の違いは、「オンとオフがしっかりしているという点」だと椎本さんは語る。 「競馬に行くとスイッチが入るというのか、やる時はやる感じですね。とにかく乗り役が乗ってからがすごい。アーモンドアイもパドックではボケっと歩いていても、ルメール騎手が乗ってから一気にスイッチが入る馬でした。やはり、そこのオンとオフがしっかりしていないとあそこまでの馬にはならないんじゃないですかね」 パドックや装鞍所で気負って無駄な力を使ってしまう馬が多い中で、走る以外のことで無駄な力を使わないことも馬の才能の一つであると言える。また、そうなるようにしっかり人間のコントロール下に置いて無駄な力を使わせないよう温存させるというのも、しつけの一環だ。競走馬として成熟したものにするには、馬の乗り味そのものよりも「競馬をいかに苦痛に感じさせないようにしてあげられるか」という精神面の充実具合の方が大事だと考えている。 「よく美談で語られるような『走るのが好きな馬』というのは人間が勝手にそう言っているだけで、個人的にはそんなに多くはいないように思います。苦しい面も多い競馬だからこそ、『そんなに苦しくないよ』と教えてあげて、できるだけ苦しくならないように人間がカバーしてあげる。苦しそうにしている馬は見ていてわかりますから、普段は楽をさせてあげたり、他とは違う方法で競馬に向かわせてあげたりと、工夫してあげることを意識しています」 確かに馬という生き物は草食動物であって、元来は捕食者から走って逃げる習性のある生き物である。何かから追われている時にその危機から逃れるために“走る”のだと考えるのは、おかしな話ではないはずだ。競走馬のメンタルと距離の関係
日頃の調教でできることは限られてしまうため、“走る”という行為、つまり競馬そのものを苦痛に感じさせないようにするために、調教以外の部分でメンタルケアをしてしっかりとコンディションを整えてあげることが一番重要なのだと、椎本さんは語る。 そうしてメンタルを整えていくことで、「距離」の面でも多少融通が効くようになる。もちろん走り方や体型、血統面などに加えて、実際に乗ってみた乗り手の感触や競馬の内容など様々なファクターを用いて総合的に判断するものだが、そのファクターの一つに気性も入ってくるのだという。 「やる気があり過ぎても、逆になさ過ぎたとしても、そのメンタル面に合わせて距離を工夫するというのはあります。これも一番は馬に合わせてですね。アーモンドアイについて言えば、彼女のベストは2000mだったと思います。オークスやジャパンカップなど2400mも勝ちましたが、能力でカバーしただけで本質的には長いはずです。全力以上、それこそ120%を出して倒れるまで走ろうとしてしまう馬だったので、筋肉量なども含めて1600〜2000mの短めの距離が向いていたと思います」史上最強牝馬アーモンドアイとは
新馬戦よりも前の牧場にいた頃から、その世代で国枝厩舎に入厩予定だった馬たちの中では3本の指に入るほどの動きだったというアーモンドアイ 。椎本さんも当時を振り返って「もちろん期待はしていた」と前置きはしつつ、正直に言えばあそこまでの馬になるとは想像していなかったという。 「アーモンドアイが2戦目として挑戦したシンザン記念のパフォーマンスが、とにかくすごかった。雨でぬかるんだ馬場で、普通の馬ならあの位置からなんて届かないようなポジション。そこから差し切るんだから、とんでもない馬だと思いました。あんなレースを見ていましたから、桜花賞は自信がありました」 その桜花賞から始まったアーモンドアイの伝説。牝馬三冠を達成し、ジャパンカップを衝撃のレコードで駆け抜けた他、海外GⅠ制覇、天皇賞(秋)連覇、三冠馬対決を制してジャパンカップ2勝目をあげるなど、積み上げたGⅠ勝利は史上最多の9つにも及んだ。 しかし、そんなアーモンドアイも、厩舎に戻ればダラっとする一面が垣間見ることができたと椎本さんは笑う。馬という生き物は知能レベルが高いこともあって表情が豊かな動物でもあるため、時には“ブサイク”な表情も見せてくれることがあるが、それはアーモンドアイとて同じだったということだ。アーモンドアイ(桜花賞)
「中」から見える競馬の魅力
競馬とは遠い家庭に生まれながら、競馬の世界に飛び込んだ椎本さん。ご自身にとって、競馬の“中”にいるからこそわかる競馬の魅力とはなんだろうか──最後に、そんなことを問うてみた。 「競馬は見ているだけでもその魅力で感動できるスポーツだと思っているので、自分達がその担い手になれるだけでなく、お金までもらえるのだからすごく魅力的な世界です。ある意味では一つの作品を作っていくような感覚に近いのかもしれません。先ほどのアーモンドアイの話じゃないですけど、ブサイクで可愛い表情を見ることもできますし、間近で接しているとファンの皆さんがなかなか知ることができない競馬だけじゃない一面を見ることができるというのも、面白い点です。また、トレセンで働いていると強い馬たちの普段の姿も見ることができますし、そういった馬たちに携わる・乗ることができる可能性や機会がある楽しい職業です。一方で動物としての馬と接していく中で、ホースセラピーのような馬からもらえるパワーや癒しもありますから、そういうものを仕事の中で感じることができるというのは素晴らしいなと思います」 そんな“中”の人間しか知ることができなかった馬房内での様子や馬上からの景色などの世界をSNSを通じて発信してくれているのは、生まれた時から競馬の世界にいたわけではなく最初は我々と同じ一競馬ファンだったからこその視点なのかもしれない。 国枝調教師は定年まであと数年に迫っているが、まだまだ有力馬を多く擁している。そんな国枝厩舎と、それを調教助手として支える椎本さん、そして国枝厩舎で日頃から調教に励んでいる競走馬たちからこれらも目が離せない。
椎本助手とUMAUMA澤
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